日本クリスチャンアカデミーは、40年以上も前に「話し合いの運動」として始まった。「話し合い」はドイツ語のGespr?chの訳語である。「話し合い」という言葉をはじめに用いたのは、南ドイツのバド・ボール(Bad
Boll)アカデミーの創立者エバハード・ミュラー(Eberhard M?ller)である。その言葉の意味を理解するために、アカデミーが設立された終戦後当時のドイツ社会と教会状況を知ることが不可欠である。敗戦後ドイツ社会の再建のモデルは、アメリカの民主主義と自由経済そしてソ連の全体主義と計画経済の間の「第三の道」(the
third way)であった。当時の西ドイツの教会のリーダーたちは、この「第三の道」の政治的コンセプトを持ってドイツの再建を目指していた。実際、敗戦後ドイツ社会の混沌とした中で組織として機能できたのは教会だけであった。この社会的状況下で、教会はアカデミーを設立し、社会の責任者達を「一泊以上の会議」(それは不可思議な日本語になった、ドイツ語のターグング
Tagungの意味である)に招いて、「話し合い」によって戦後ドイツ社会の再建に多大に貢献した。
要するに、アカデミーの「話し合い」は、本来、教会の社会的責任を意味する政治的・社会的な概念である。日本において「話し合い」は、時々哲学的に人と人の「出会い」と解釈されてきたが、それは本来のアカデミーにおける話し合いの意味の誤解であろう。また、アカデミーが目指している「話し合い」の参加対象者は、生涯学習講座とは異なり、単に教養を得ようとする人々ではなく、社会の真只中で活躍する社会や政治を変化できる実力者である。
しかし、このような本来の「話し合い」を現代社会で実現するのは困難であるが、少なくても本来の精神に戻って三つの課題を想定できる。
その一つは、多様化した現代社会において、アカデミーあるいはキリスト教の社会的課題を定義するのは困難である。換言すれば、アカデミーの「ミッション」を一つの概念で纏めることには無理があるということである。キリスト教の社会倫理学の根本概念である自由、平等、正義、平和等は、一般概念であり、それを具体的に社会問題と結びつけるは簡単ではない。ドイツでも日本でも、予算、人材、活動担当者の興味が優先にされてアカデミー活動を計画する現状がある。本来ならば、聖書に基づく現代社会の学際的研究によってアカデミーの課題を検討すべきである。聖書に基づく学際的研究は、残念なことに、日本のアカデミーには欠けている。
第二に考慮すべきは、世俗化され、価値多様化した社会において、ドイツでも日本と同様、キリスト教は少数派の集団になってしまった。戦後のアカデミー創立者たちが目指したキリスト教の精神にもとづく社会再建の「キリスト教の精神」はもう一般的に通じなくなっている。ボンヘッファーが始めて指摘したように「世俗的に神のことを語る」(weltlich
von Gott reden)ことは、アカデミーの大きな課題である。即ち、キリスト教がもつ人間、社会や政治に関する知識と知恵を誰にでも理解できるように説明することが必須になってきた。
最後に問題となるのは、アカデミー・プログラム参加者のことである。現代社会を変革できるのは、個人でも政治でもなく、地域社会、職業団体や自発的組織のような「中間集団」(intermediate
groups) である。そのような集団に新しいヴィジョンと専門的な知識と技術を与えるのがアカデミーの課題、あるいは方向付けになるのではないだろうか。