日本クリスチャンアカデミーの理念を象徴する「対話」の概念には長い歴史がある。その概念をはじめて用いたのは、一八世紀ヨーロッパにおける啓蒙主義者である。当時、ヨーロッパでは近代化が始まり、自然科学の発達とともにキリスト教への批判が生じた一方、宗教の多様性が意識されるようになった。単独の宗教、哲学体系、学問のみが「真理」を所有することが求められず、「対話」によって「真理」が探究されなければならないと考えたのは啓蒙主義者の重要な発見であった。その後、対話の概念は民主主義的法治国家論の基礎となり、第二次世界大戦後、ヨーロッパ社会の諸種の葛藤を解決する方法となった。キリスト教的な立場から社会的責任を果たすため、戦後ドイツで設立されたアカデミーはその概念を基本的方法論として受け入れた。諸学問、宗教、団体などがア
カデミーに集い、出会い、そこで提供される諸問題の解決を対話によって目指すことが当初のアカデミーの理念であった。
最近、対話の概念の意味が問われるようになってきた。現在、ドイツの人口の九パーセントは永住権を持つ外国人であり、その過半数はイスラームの信徒、特にトルコ系住民である。二〇年後、EU内のイスラーム系住民の数は四千万人にのぼると想定されている。イスラームは近代以前の、啓蒙主義の時代を体験していない宗教である。
イスラームの中で、未だ少数派であるテロ事件を引き起こす過激的グループの扱いは、現在、法律および政治の問題になっている。それを背景にした真の問題はトルコ系住民をどのように地域社会で受け入れるかという点である。そのためにトルコ系住民とキリスト者との対話を試みている教会がもう既にある。しかし、その対話の試みはほとんど失敗に終わっている。その理由は、自らの絶対性を強調するイスラームは対話の必要性を認めないばかりではなく、キリスト教にとって重要である人間の自由と平等を拒否する傾向があるからだ。
外国人、特にイスラームの信徒が少ない日本にとっては、それは遠いヨーロッパの問題かもしれない。しかし、ヨーロッパの現状を見て、日本のアカデミーは対話の意味を改めて見直す時が来ていると思う。対話は価値多様化された現代社会の諸問題を解決するための重要な方法である。対話の前提には、真理の観念と認識の限界への洞察がある。カール・バルトは神と信仰を厳密に区別し、神は絶対完璧だが、信仰と神学は人間の業として不完全であると強調した。その立場に立つキリスト教は他の宗教や学問との対話を求める。その際、他の宗教や学問が対話を求めないとどうなるだろうか。
伝統的な日本の宗教の大半は現代社会の問題から隔離されている。科学者は生命倫理の討論で明らかなように、宗教や哲学が貢献することを評価しない。ここでアカデミーが提供する対話は単なる自己満足のための活動になる危険性を孕んでいる。今一度アカデミー運動の原点に立ち帰り、アカデミーはキリスト教の一環として、現代社会に何が貢献できるのか検討すべきである。言い換えれば、人間性を失いつつある現代社会において、アカデミーが人間の自由、平等、正義や人間の尊厳が守られるために何をなすべきか改めて検討すべき時が来ているのではないか。