| 6月の鎌倉は、山々の緑が見事です。寺社、教会等が百を超えると聞きます。日々、慶弔を含め数々の宗教行事がおこなわれているほか、観光に訪れる多くの人々も信心の機会を体験し、ご利益に与かっています。
かつて「さらに宗教間対話に向けて」(「はなしあい」第427号2000号5月号)で「宗教(間)対話は必要か、可能か」と問うたことがあります。
クリスチャンカデミーは「アブラハム的宗教としてのユダヤ教、キリスト教、イスラーム」(1999年3月)で、この三つの宗教が姉妹宗教でありながら、異端弾圧、迫害の悲惨な歴史に学びましたが、実際にユダヤ教のシナゴグ体験、イスラームの東京ジャーミー体験を実施、また仏教、神道に学ぶプログラムなどをおこないました。さらに9・11多発テロの背景、戦争と追悼、現代のスピリチュアリティについても考える機会をもちました。北鎌倉建長寺で禅を体験しました。
この3月、「キリスト教は寛容か」のテーマで対話の集いをもちました。講師としてお招きした佐藤研は、ナザレのイエスに遡源する必要と、あらためて聖書学、とりわけて新約聖書学との対話は必須だと主張されました。イエスの「寛容」さは、権力志向に対する激しい批判のパトスと表裏一体であり、それ故にこそイエスの生死から体験的「覚知」に学ぶべきだというのです。それは単にイエスを「信ずる」次元に留まるのではなく、「追体験」することの重要さとともに、「キリスト教の礼拝も、もっと禅の資質を深く取り入れる」ことを提言しています。ここに「宗教対話の可能性」を予見するのです。
関田寛雄(「『断片』の神学」2005年11月、日本キリスト教団出版部)は、今日の宗教的状況から宗教の本来的あり方へと立ち戻るために、既成宗教批判−それも厳しい自己批判を提唱しています。そして「宗教間対話めざすところは個別宗教の自己批判を介しての本質回帰である」と。超越と内在は不可分であること(キリスト教)、それは同時に還相回向(仏教)が指向することは明らかだと言っています。観念的な信仰ではなく実践的な信仰を、だからこそ宗教間が協働し、民衆の苦難の全的解放を願って実践すべきことを説いています。
宗教間対話の隘路に、各宗教には教義化された言語があり、その宗教共同体でしか通用しないことが、しばしばです。しかし、いま宗教を異にする人々がその信仰体験を日々の生活体験の言葉で語ろうとしはじめています。宗教対話は忍耐、そして尊敬、やがて学びあうに至ることが、大切だと指摘する識者もいます。
佐藤研は「禅」つまり「瞑想」、それも非対称的瞑想の必要性を述べています。プロテスタントは長らく瞑想行を忘れていたと言います。しかし、ついにはキリスト教各教派は横断的に再定義され、さらに他宗教の異者的存在ともオープンに共鳴し合える「共鳴共同体」を形成していくのではないかと展望しています。
今日の世界におこっている凄まじいまでの憎しみと殺戮をみるにつけ、宗教対話の必要性は必至です。さらにその宗教対話の可能性を求めて、実際に多くの試みがおこなわれています。忍耐と尊敬をもって、学びあい、かつ協働の場を創っていきたいと願わずにはおられません。(関東活動センター運営委員、YMCA史学会会員)
|